*命の行く先*

 晩秋の凍てつく朝、作業小屋の前になにやら黄色いものが転がっていました。よく見るとイタチです。ありゃ、死んでいるのかな?と思い、足でつついてみるとのっそり動く。死にかけか?と思っていたら、ノロノロと歩き出して、見てる間に逃げていってしまいました。
 
 子供の頃はたまにイタチを見かけることもありました。ニワトリを飼っている家が多くて、ニワトリをイタチに殺された、なんて話も聞いた記憶があります。でも最近はニワトリを飼っている家もなく、イタチを見かけることなんてまったくなくなっていたのですが・・・・あっ!家のアイガモを食っているのはあいつだってーの!ぬかった。逃すんじゃなかった。
 とはいっても、捕まえたからって、あらたまって殺すのもなんだかイヤだし、それでアイガモが戻ってくるわけでもないし・・・・。
 田んぼで除草や害虫退治に働いてくれたアイガモたちは冬には肉になります。残ったアイガモもそろそろ肉になって私の腹の中へ。アイガモにしてみれば、イタチに食われようが、人に食われようが、どちらも死ぬことには変わりないわけで・・・・。いったい命ってのものはどこから来て、どこへ行くのかなんて考えてしまったりして。たくさんのそれに関わっているってことはとてもオソロシいことじゃないかとか、考えてしまったりして。なんだかちょっと悲しくなってきたりして・・・・。
 
 晩秋〜冬の冷たい日に濡れたカモの羽根をむしるのは難儀な仕事です。何十羽もとなると数日かかります。前年までは自分で殺して、羽をむしって、肉をさばいていたんですが、今年は専門の処理場に委託しました。処理場に頼むとお金はかかるものの、その手間を考えれば実に楽に、あっという間にできあがりです。
 処理場に出来上がった肉を引き取りにいくと、アイガモは肉、ガラ、内臓に分けられ、きれいに真空パックされて、カチンカチンに凍っていました。こうしてみると本当に清潔なもんです。自分で解体するときのあの血や肉の感触と臭いなんか想像もつきません。まるで別のものみたいです。それを見ていたら、なんだかまたちょっと悲しくなってきたりして・・・・。
 
 家では私が子供のころ養鶏をしていて、正月とか毎年何羽もニワトリをさばいて食べていたので、食べるために鳥を殺すという行為はごく当たり前のことととらえていました。だから自分でアイガモを殺してさばいて肉にして食べることに対して、とくに抵抗はありません。それがきれいに真空パックされたカモ肉を見て悲しくなるとは、なんだか変な感じです。
 
 農業は命を育む職業です。しかしその作業の過程で、ヘビやら、カエルやら、ドジョウやら、ミミズやら、無数の虫たちやらの命を奪うことになります。何億の命を奪って、何百かの命の糧とするわけです。
 命って一般には一個、二個と個数でとらえられていて、数が失われることに対して悲しむけれども、本当は命の単位って〈数〉ではなくて〈量〉なんじゃないかと思います。「リットル」とか「グラム」みたいな。
 命という大量の水があって、小さな器や大きな器に分配される。その器が尽きるときに別の器に入れ替えられる。こうして命は循環する。だからほんとに悲しいのは数が失われることではなく器から器への循環がとぎれ、量が失われることではないかなと。
 イタチに食べられたり、飼い主に食べられたりするアイガモの命の行く先を考えていたら、ふとそんなことを思いました。
 寒い冬に熱々のカモ鍋を食べて幸せな気分になれるのは、うれしくもあり、悲しくもあり。

(2005年3月)

冬はナベ

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