*納豆と心のうるおい*

 納豆が大好きですから毎日納豆です。毎日食べていると不満なことも出てきます。
 まず第一の不満はあの付属のタレとカラシ。あのタレは薄味で量が多すぎます。全部入れると納豆がバシャバシャになってしまいます。しかも甘ったるいぼけた味になってしまいます。かといってお好みの量使って、残りをとっておけるようなパッケージじゃありません。捨ててしまうのは心が痛みます。
 それからカラシは味も香りも、市販のチューブ入り練りカラシに比べたら数段落ちます。
 まあ、それらが付いていない納豆を買えば何ら問題はないわけですが、残念ながら私には選択権がありません。
 最大の問題はあのポリ容器。うちで配給されるのは50g入りくらいの小振りなやつ。あれは精神衛生上よろしくありません。
 「これが一食分ですよ」と強制されているような気がします。
 いや、誰も強制していないし、別に少なければもう一個食べてもいいし、半分残したって誰も文句をいわないのですが、なぜか無言の圧力を感じます。
 「これが一食分です。それが社会の常識です」といわれているような気がします。
 「これぐらいの量の納豆を、このタレとこのカラシで、一日一回、一人一個ずつ食べるのが日本人の義務です」とまでいわれているような気さえします。
 もしかしたら何処かに「影のナットウ政府」というものがあって、一年間に国内で消費される納豆の量はその影のナットウ政府内で秘密裏に決められているのではないでしょうか。
 それは大豆の輸入量や価格相場によって決められ、それに合わせて食べる量を気付かぬうちにコントロールされているのではないでしょうか。
 しかし問題は食べる量ではないのです。日本人の心を蝕むあの容器なのです。
 あの形状、「器に移さず、このポリ容器の中でときなさい」といっているように感じませんか?
 「それが常識だよ。そのためにわざわざこの形にしたんだ。そんなこともわからないおバカさんなのか?」と鼻で笑われているような気がしませんか?
 あの柔い容器の中では思い切ってかき回すことが出来ません。気をつけていないと箸で容器に穴を開けてしまい、後悔の念を抱えながら食事をするハメになってしまいます。悪いことではないのに、なぜか罪悪感をもってしまいます。この小さな不安が少しずつ現代人の心を蝕んでいくのです。
 ああ、食事のたび我々の心に安らぎとうるおいを与えてくれたあの納豆はどこに行ってしまったのでしょうか。
 全国のナットウ党の皆さん。影のナットウ政府の策略にのってはいけません。
 今すぐ陶器の器に納豆をあけ、力を込めて思う存分かき回し、圧力に屈することなくお好みの味付けをし、さらに心ゆくまでかき回し、ネバリを愛でながら食しましょう。
 忘れていた心のうるおいを取り戻すのです。

(2007年7月)

自由ナットウ党宣言
自由ナットウ党宣言

〔 戻る前へ次へ 〕