*旅の空にて*

 悪いクセとでもいいましょうか、夏の終わりにツーリングに行ってきました。能登の方へ。
 はじめは能登半島だけ廻るつもりだったのが、観光ガイドとか見て計画を練っているうちに、ちょっと足を伸ばして白川郷の方にも行ってみようかって気になり、まずは白川郷へ、それから能登半島を廻って、あとは成り行きまかせ、みたいないいかげんな計画を立てて出発しました。
 
 百棟あまりも茅葺きの合掌造りが残る岐阜県・白川郷荻町集落。
 庄川と平行して幹線道路があり、その周辺に合掌造りの家々や小さな田んぼが点在しています。とてもきれいに整備されていて見所も多く、山の上の展望台から見た景色はまるで箱庭のような整った美しさでした。
 数百年も前から変わらぬ景観を残すというのは大変な努力が必要でしょう。
 それにしてもさすが世界遺産。その人の多さといったら。どこに行っても観光客があふれています。
 日の高いうちに宿に入り、夕暮れまで町の中をぶらぶらと一通り歩いてみて廻りました。
 確かに美しいし、昔の日本の田舎の姿をとどめてはいるんだけれども、なぜか妙な違和感を感じました。作り物っぽいというか。普通に地元の人が日常生活を送っている場のはずなのに、なぜか生活感を感じないというか。
 所々に小さなトタン張りの新しい家が並んでいたり、古い家にもパラボラアンテナが付いていたり、洗濯物が干してあったりするのだけれども、なぜか「日光江戸村」とか「太秦映画村」みたいな無機質な感じがしました。
 
 
 次の日は能登半島へ行き輪島に泊まり、宿で地図をにらみまた計画を練り、結局また内陸の方に戻り、白川郷の隣り、富山県・五箇山に行くことにしました。
 
 
 白川郷から続く庄川に沿って国道が延び、道の両側は高い山、川は谷の底です。
 国道沿いにいくつも小さな集落が並び、山と谷に沿って延々と生活が営まれてきた様が感じられて、なかなかいい雰囲気です。
 そりゃあ、何百年も変わらずに残る姿じゃないけれども、こういった時間が流れていることを感じさせる場所の方が、よっぽど価値があるように思えます。

 この日は白川郷と共に世界文化遺産に登録された相倉集落の民宿に宿を取りました。
 四方を山に囲まれた小さな集落で、23棟の合掌造りが残っています。日の高いうちに宿に入り、また村の中をぶらぶら。やはり人の数がすごい。世界遺産に登録されなければ、本当に山奥の小さな寂しい集落のままだったんでしょう。昔の人はこんなに人であふれかえるときが来るなんて想像したこともなかったでしょうね。
 しかし、人が多いながらも、こちらにはなんというか、リアルな生活の匂いを感じました。地元の人が自然体で普通に生活している雰囲気が漂っていて、とても落ち着きます。
 夜、同宿になった人たちと囲炉裏を囲んで酒を飲んだとき、白川郷で感じた違和感のことを話したら、兵庫県から来ていたご夫婦も同じことを感じたとのこと、自分一人だけの印象ではなかったわけです。
 この2つの場所の印象の違いはなんだろうなと考えたときに、都会と向き合う姿勢の違いなのではないかと思いました。都会の求める形にあまりにも迎合して、虚構の田舎を演出しているのではないかと。
 それが実際の生活の場なのに、まるでテーマパークに来ているような違和感を感じてしまった原因だったのではないでしょうか。
 おそらく都会で生まれ育ち、年に数日しか田舎に触れる機会のない人はこんな事を感じないのかもしれません。
 最近は町おこしだなんだと、こういった都会のイメージする田舎の姿を作り上げ、それを売りにしようとするところもあります。
 しかしそれはあくまでテーマパークのような虚構の田舎で、現実の地方の姿ではありません。
 はたしてそういった形で都会と向き合うことが、地方にとって本当によいことでしょうか?
 単にテーマパークを作るのならば構わないのかもしれませんが、生活そのものをテーマパーク化してしまったら、そこで生活する人間は、いつ着ぐるみを脱げばいいのでしょうか?
 そこにあるのは結局、都会に従属する、都会に都合のいい、中身のない地方の姿だけが残るのではないでしょうか。
 都会に依存しない田舎の自立性ってのを田舎の感覚で作って行かなきゃならないのかなあと、旅の空の下にて、何となく思った次第。

(2006年12月)

五箇山民宿
合掌造りの民宿にて

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